京都 三条広道郵便局 風景印

〒605-0034
京都府京都市東山区三条通白川橋東入4-中之町210-5

三条広道

使用開始年月日:1987年(昭和62年)3月16日
重要文化財 南禅寺三門 琵琶湖疎水

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三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門です。
五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。幅21.8メートル、高さは22メートルもあります。
開創当初の三門(1295年)は焼失し、現在の門は藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うため、1628年に再建されたと言われています。
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕目返しで石川五右 衛門が「絶景かな絶景かな……」という台詞が有名です。五右衛門が亡くなってから30 年以上経って出来た門ですが(^^;
2階にあがると京都の街が一望でき、確かに「絶景」です。

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琵琶湖疎水とは琵琶湖の水を京都市へ流すために作られた水路です。1800年代後半~1900年代前半にかけて作られました。
大雨の中での風景写真ですので、見栄えが悪いです。

中越切手展 小型印

長岡 小型印

中越切手展で小型印が配備されたので郵頼しました。
47回目となるはずですが、昨年から何回目かは小型印のデザインには入らなくなったようです。印のデザインも昨年と同じのようです・・・何があったんでしょう・・・

印のデザインは「長岡城を模した3層4階の天守閣風の長岡市郷土資料館」だそうです。

長岡城は1618年(元和4年)に完成した平城で、元々天守はなかったそうです。戊辰戦争の折に城郭は消失。本丸跡地は現在のJR長岡駅周辺で遺構はありません(石碑があるようです)。
図案となっている長岡市郷土資料館の石垣の一部には旧長岡城の石垣石が使われているとか。でも、資料館の建物は天守閣風に建てられていますが、長岡城との関係はないそうです(^^;あくまでも長岡城風ということのようで・・・

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余談ですが、返信封筒に押されていた消印です。
いつも返信封筒への押印は特に何のお願いもしていませんが、この消印は右下に真っ直ぐ綺麗に手押されていて(スタンプ式じゃなさそうだった)・・・わざとこうしてくれたのかなぁと。ちょっといい感じだったので残しておきました。

 

新潟 長岡郵便局 風景印

〒940-8799
新潟県長岡市坂之上町2-6-1

長岡-2

使用開始年月日:2007年(平成19年)10月1日
長生橋(ちょうせいばし) 花火

長生橋は長岡市の信濃川にかかる国道351号の道路橋梁です。3代目となる現在の橋は1937年(昭和12年)に竣工し、橋長850.8 mで幅員7.0 mあるそうです。
江戸時代の信濃川はもっと今より川幅があったが橋梁はなく、渡船しか手段がありませんでした。天候不良で船が出せなかったり、春の雪解け時期などは雪塊が船に衝突して転覆するなど長きにわたり様々なトラブルがつきものだったそうです。
そこで、1876年(明治9年)になって、中州を挟んで2つの木製の橋が登場します(初代)。開通の際、長岡の「長」と草生津の「生」の字を取って「長生橋」と名付けたと言われています。また「長生き」に掛けて命名したという説もありますが、橋名の正確な由来は定かではないようです。
この橋の登場で長岡の交通の要所となるのですが、やはり洪水などで度々橋が破損。
そこで、中州を通らず1本で両岸を結ぶ新たな橋梁が登場する。1915年(大正4年)のことでした。これが二代目の橋です。
但馬(今の兵庫県)妙見山の杉材を使用して完成した2代目「長生橋」も木橋であったため、風雨や洪水で度々損傷し、腐朽も進んだ為、1937年(昭和12年)現在も使用されている鋼鉄橋の三代目「長生橋」が誕生しました。

毎年夏に行われている長岡の大花火大会では、この長生橋からナイヤガラの花火が打ち落とされるそうです。

小型印と共に郵頼しました。橋一つ取っても長い歴史があるもんなんだなぁ。。。

大阪 旭新森六郵便局 風景印

〒535-0022
大阪府大阪市旭区新森6-11-20

旭新森六

使用開始年月日:2000年(平成12年12月12日)
花博記念公園鶴見緑地内の「咲くやこの花館」 「命の塔」

咲くやこの花館は1990年4月から9月に開催された「国際花と緑の博覧会」で大阪市のパビリオンとして建設されました。
熱帯から乾燥地帯、高山、極地圏までの、地球上の様々な気候帯に生育する植物を栽培展示している日本で最大の温室だそうです。
名称の「咲くやこの花館」は、当時一般公募で決定したもので、古今和歌集にうたわれている

「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花」
( 難波津に、咲いたよこの花が。冬の間は籠っていて、今はもう春になったので、咲いたよこの花が。)

の古歌に由来したといわれています。この花というのは梅の花をさしているようです。

命の塔は同博覧会で、「地球ふしぎ・生命ふしぎ」をテーマに、生命の大樹・いのちの塔出典実行委員会により「生命の大樹・いのちの塔」のパビリオン名で出展されたものです。
花博終了後、1992年4月に花博記念公園鶴見緑地の展望塔として再オープンしましたが、現在は営業が停止されています。

旭区の風景印はすべてお友達からのいただきものです。特に風景印の収集が趣味というわけでもないのに、「この日は局を回りたかった」と・・・天気も悪かったのに・・・十分その素質を兼ね備えているような気がします(^^;

命の塔

そんな友達が送ってきてくれた命の塔の写真。
うーーん。天気悪い!!(^^;

命の塔は当時入ってないけど、咲くやこの花館は入った記憶が・・・当時撮ったアナログな写真、どこへ行ったかなぁ。

なかなか好天に恵まれた日に花博記念公園に行きました。
命の塔と咲くやこの花館を別々に撮影してしまった・・・(- -;

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大阪 大阪城東郵便局風景印

〒536-8799
大阪府大阪市城東区今福東3-16-23

大阪城東

使用開始年月日:1990年(平成2年)3月30日
鶴見緑地の風車 城北運河
外枠 区花・コスモス

城北川(城北運河)は1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)にかけて運河としての利用を目的に掘削された。昭和の終わりの頃になると運河として利用する船が減ったため1985年(昭和60年)に一級河川となった。

風車は隣接する鶴見区と守口市の市境にある鶴見緑地公園にある。
1990年(平成2年)4月1日~9月30日まで開催されていた「国際花と緑の博覧会」の折につくられたものかと思っていたら、それ以前からあったようです。

この博覧会の開催に合わせて、周辺の局の風景印が花の変形印を使用するようになったんだそうです。

お友達が貰ってきてくれました。

広島 広島西郵便局風景印

〒733-8799
広島県広島市西区天満町5-10

広島西

使用開始年月日:1974年(昭和49年)12月10日
原爆ドーム 原爆の子の像

原爆ドームは元はチェコ人の設計で1915年(大正4年)4月、広島県物産陳列館として竣工したそうです。
県内の物産、他府県からの参考品の収集・陳列、商工業に関する調査及び相談、取引の紹介に関する図書・新聞・雑誌の閲覧、図案調製等を行っていました。

原爆の子の像は2歳で被爆し、9年後に白血病を発病、翌年12歳で亡くなった佐々木禎子さんがきっかけで原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内にこの像が完成しました。(1958年(昭和33年)5月5日)

忘れてはならない日に引受消印で郵趣のお友達が送って下さいました。

宮城 仙台七夕祭り小型印

仙台七夕まつりの小型印を郵頼しました。
何局かありましたが、情報に気がついたのが遅かったので余裕を持って出せる仙台中央局にお願いしました。

七夕祭り 政宗像

伊達政宗像と七夕の笹飾り

七夕祭り 仙台城

青葉城(仙台城)と七夕の笹飾り

毎年8月6日~8日にかけて行われるお祭り。元々は笹に短冊をかけ、手芸、手習いの向上を願うお祭りでした。
伊達正宗が1629年の7月7日に母親である保春院の七回忌の際に
「七夕の逢瀬ながらも暁の別れはいかに初秋の空」と歌を詠んでおり、この頃には既に七夕の行事は取り入れられたとされています。
所が明治維新を境に祭りがどんどん衰退していき、戦争、不況、なども重なってほとんど行われなくなっていたそうです。
復活のきっかけとなったのは昭和3年に行われた東北産業博覧会で「七夕飾りの飾り付けコンクール」が行われたことでした。それをきっかけに今のような豪華な飾り付けが発達していったということです。

宮城 仙台中央郵便局 風景印

〒980-8799
宮城県仙台市青葉区北目町1-7

仙台中央

使用開始年月日:2007年(平成19年)年7月2日
七夕飾り 伊達政宗騎馬像 市木・ケヤキ

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仙台城本丸跡にある伊達政宗公の騎馬像です。
1935年(昭和10年)に建てられましたが、太平洋戦争時に金属徴用で撤去されてしまいました。1962年(昭和37年)に復元されたそうです。

宮城県に旅行に行った際、行程には入ってなかったのに無理やり寄ってもらって写真を撮った時のものです。西日が強く、顔が暗くなってしまいました。でも、眼帯はしてなかったような。。。
戦争時に撤去された像は騎馬部分だけが使われたようで、政宗の胸像だけが残っており、現在は仙台市の博物館の庭にあるということです。

七夕祭りは例年8月6日~8日に行われています。

大阪 住吉大社前郵便局 風景印

〒558-0044
大阪府大阪市住吉区長峡町5-4

住吉大社前

使用開始年月日:1990年(平成2年)3月30日
国宝・住吉大社本殿 第二本営 反橋(太鼓橋)
外枠 区花・かきつばた

大阪市住吉区にある住吉大社は全国2300ある住吉神社の総本社であると共に、「日本三大住吉」(後の二つは下関、博多)の一社である。

祭神は、底筒男命(そこつつのをのみこと)・中筒男命(なかつつのをのみこと)・表筒男命(うはつつのをのみこと)・神宮皇后(じんぐうこうごう)の4柱。

デザインにある第二本営は中筒男命が祭られている。

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通称「太鼓橋」と呼ばれる反橋は長さ約20メートル、幅約5、8メートルの木造桁橋。橋中央の高さは4、4メートルで最大傾斜が約48度となっている。この橋を渡るのは、神さまに近づくのに罪や穢 れを祓 い清めるためで、反っているのは、地上の人の国と天上の神の国とをつなぐ掛け橋として、虹にたとえられていたからだとか。

反橋

浪速の名橋50選に選定されている。

女性の局員さんが応対してくれた。押印時、腕時計、ブレスレットを外し、「緊張するなぁ」と言いながら丁寧に押印して下さった。

大阪天神祭 小型印

大阪天神祭の小型印が大阪天満宮付近にある6つの郵便局で開設されたので貰ってきました。
と言っても、全部の局を回るのは人出+暑さで断念。天神橋局に行けば6つすべてを押して貰えるので天神橋局で貰ってきました。

天神祭小型

図案は天神祭の御迎人形の一部。
船渡御の一行を御旅所まで導くために作られた風流人形で、大きさは2メートルを超えます。
天神祭の歴史は古いですが、御迎人形が登場したのは江戸時代の元禄期。人形の多くが、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物を題材としたものになっています。
御迎人形が必ず赤(緋)色を身につけているのは「疫病(疱瘡)祓い」という意味があります。
多いときには50体を超える人形があったそうですが、現在残っているのは16体だけだそうです。

安倍保名

<天満橋郵便局>
安倍保名(あべのやすな)。浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんお おうちかがみ)」の登場人物。伝説上の人物とされる。

羽柴秀吉

<大阪中央>
羽柴秀吉。後の豊臣秀吉ですが、この人形は「絵本太公記」(江戸中期の人形浄瑠璃および歌舞伎の演目)の登場人物の秀吉がモデルになっているそうです。

三番叟

<大阪OAPタワー内>
三番叟(さんばそう)。能の天下泰平を祈る儀礼曲「翁」に出てくる役の名前。狂言方が演じる。五穀豊穣を祈る為の舞。

酒田公時

<大阪天神橋>
酒田公時(さかたのきんとき)。坂田とも書くようです。
平安後期の武士で源頼光四天王の一人。幼名金太郎。

鎮西八郎

<大阪東天満>
鎮西八郎(源為朝)。平安時代の武将で、源頼朝の伯父にあたる。
幼少期より素行が悪く、13歳の時に父為義から勘当されて九州の鎮西に追放される。だが、「鎮西惣追捕使」(ちんぜいそうついぶし)の「鎮西八郎」と名乗り、九州でも暴れ回っていたという。鎮西八郎という名はそこから誕生した。

木津勘助

<大阪西天満>
木津勘助。本名中村勘助。1586年生まれ、1660没と伝わるが、不明な点が多い。 豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽力した。また江戸時代には木津川を浚渫(しゅんせつ)し、水害を防いだ功績が認められ、市中川浚い御用係に任命されている。この頃から木津勘助と呼ばれるようになったようです。

御迎人形

天神橋筋商店街のアーケードの入り口には御迎人形をモチーフにした人形が飾られています。

趣味のこと