「愛媛県」カテゴリーアーカイブ

愛媛 今治北日吉郵便局 風景印

〒794-0054
愛媛県今治市北日吉町1-14-4

使用開始年月日:1999(平成11)年4月26日
来島海峡大橋 船舶 獅子舞

今治の獅子舞は他とは少し違い、人の上に人が立ち、獅子頭をかぶって獅子を舞うそうです。三人、四人と高くなっていく様はスリルと迫力があります。天におられる神様に少しでも近づきたいという思いで高さのある獅子舞になったとのことです。
毎年5月に今治市内の各神社で行われるそうです。
愛媛県指定無形民俗文化財に指定されています。 

愛媛 今治松本郵便局 風景印

〒794-0041
愛媛県今治市松本町3-4-16

使用開始年月日:1999年(平成11年)5月10日
今治城 来島海峡大橋

今治○○郵便局と名の付く局はほとんど(全部か自信がないので、「ほとんど」って書いときます^^;)来島海峡大橋が描かれています。
よく見てると、使用を開始されたのも1999年4月末~5月上旬がほとんど。
なんだろう?と思ったら、その年の5月1日にしまなみ海道が開通したとのことでした!
それに合わせて今まで配備されてなかった今治の多くの局が風景印を配備されたようです。
今治局はそれ以前も風景印がありましたが、その時期に図案を変更しています。図案からお城が消えてしまって残念ですけど・・・

 

 

愛媛 今治郵便局 風景印

〒794-8799
愛媛県今治市旭町1-3-4

使用開始年月日:1999年(平成11年)4月21日
来島海峡大橋 野間馬

今治にある「のまうまハイランド」の野間馬が描かれています。

のまうまハイランドのHPに書かれている「のまうまの歴史」によりますと、、、
のまうまの歴史は、江戸時代(1635年)にさかのぼり、今治の久松定房が兄の久松定行に命令され、瀬戸内海に浮かぶ馬島で、合戦に使う馬を育てることになりました。しかし、病気やえさ不足のため、長続きしませんでした。そこで、馬を当時の松山領の野間郡(現在のハイランドがある周辺地域)の農家で育ててもらい、体高が4尺(約121cm)より高い馬は買い取り、それより低い馬は、農家に無料で払い下げることとしました。こうして農家では体高の低い馬どうしの子供が生まれ、今のような小さい野間馬が出来上がったのではないかと言われているそうです。

特徴としては、、、
・体に比べて頭が大きい
・たてがみが多い
・体高120センチ以下
・ずん胴
・尻は短く斜尻
・蹄が固く、蹄鉄なしでも大丈夫
こんな感じ。

こちらへ行けば、乗馬もできるようです。

来島海峡大橋は、今治市、瀬戸内海の来島海峡を跨いで大島と四国を結ぶ長大橋で、来島海峡第一大橋、来島海峡第二大橋、来島海峡第三大橋の総称です。
3つの長大橋梁により構成された世界初の3連吊り橋で、全長は4105mです。中央が西瀬戸自動車道(しまなみ海道)で北側に自転車歩行者道、南側にバイク道を併設しています。

今はあまり見かけなくなったご当地のポスタルグッズを見つけたので、そちらに押してもらうことにしました。
とても丁寧にご対応頂きました。

愛媛 今治東門郵便局 風景印

〒794-0033
愛媛県今治市東門町1-7-43

使用開始年月日:1999年(平成11年)5月20日
来島海峡大橋 今治城

今治城は1602年(慶長7年)藤堂高虎によって築城開始され、2年後に完成しました。
三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど、海を最大限に活用した城となっています。日本三大水城の一つに数えられています。

図案に描かれているのは天守(右側)と御金櫓(左側)でしょうか。

この天守、当初の建築の実在について明確な資料が少ないそうで、史実に基づかない模擬天守なんだそうです。
御金櫓も再建です。1985年(昭和60年)に東隅櫓が御金櫓として再建されました。
外観は今治藩医の半井梧庵が残した写真をもとにしたそうです。名称は今治城の古絵図において東隅櫓に御金蔵という蔵が併設されていたことに因んでいます。

天守最上階から来島海峡大橋を望む。。。
なんだけど、曇っていてかすかに見える程度ですねぇ(;^_^A

お堀の水は海水なので、色んな海の魚が泳いでるんですよ。っと局長さんがお話ししてくれました。

愛媛 大洲若宮郵便局 風景印

〒795-0063
愛媛県大洲市田口甲7-3

使用開始年月日:1993年(平成5年)3月25日
「おはなはん」のブロンズ像 ツツジ 冨士山

「おはなはん」は、NHK連続テレビ小説の第6作です。1966年4月4日から翌1967年4月1日にかけて1年間放送されました。
明治中期の愛媛県大洲市出身の茶目で明るい主人公・林ハナ。
軍人とお見合いで結婚し子供も授かったが夫は病で他界してしまい、女手一つで子供たちを育てながら、幾多の困難を乗り越えて成長していく姿を描いた作品です。

おはなはん・・・知りませんでした(-_-;)
NHKのドラマは疎くて・・・局の方が説明して下さいましたが、あまりわかっていませんでした(;”∀”)

他にも大洲出身で有名な方が、駅前におられました。

青色発光ダイオードの発明をした方です。大洲のご出身だったんですね。勝手に徳島だと思っていました。

それは置いといて、、、後ろの山は富士山?!
点が一つ足りませんね。。。

大洲盆地中央にそびえる「冨士山」は、「とみすやま」と読むそうです。
その姿が富士山に似ていることから名付けられた標高320mの山です。
日本有数のツツジの名所として有名で、毎年4月下旬~5月には6万3000本のツツジが見事に咲き、冨士山頂がピンク色に染まるそうです。

 

愛媛 大洲郵便局 風景印

〒795-8799
愛媛県大洲市大洲728-1

使用開始年月日:1966年(昭和41年)6月1日
大洲城 肱川橋 鵜

肱川(ひじかわ)は、愛媛県南予地方を流れる肱川水系の本流で、一級河川です。
かつて人々は、「町はずれに大川有、舟わたし。」と『四国邊路通指南』に記されているように舟で肱川を渡っていましたが、天候に左右されるなど渡河往来には困難を極めていました。明治になって、13隻の川舟を繋ぎ板を乗せた浮橋が架けられ、これが肱川橋が開通するまでの38年間、交通上の重要な役割を果たしていました。その後、1913年(大正2 年)に3年の月日を費やし肱川橋が開通しましいた。現在の橋は4代目で1967年(昭和42年)にできたものですが、耐震性を満たしていないとのことで、昨年秋ぐらいから、架け替え工事が行われています。

仮設の橋の上から。肱川橋の橋脚です。

大洲城から見た肱川橋の橋脚と仮設の橋。

大洲城は、1331年(元弘元年)鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城されたといわれていて、その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していきました。

肱川から見える大洲城。
風景印のお城が小さいので同じような感じで・・・

鵜飼いは「古事記」や「日本書紀」にも記述がある昔ながらの漁法で、鵜の食道で魚を一気に気絶させるため、傷がつかずしかも新鮮。古くから天皇、貴族、大名などへの献上品として保護されていました。江戸時代に大洲藩でも鵜を使った漁法が行われていたことが古文書に記されているそうです。
明治以降は、漁法も近代化が進み一時は衰退していましたが1957年(昭和32年)に肱川で観光鵜飼として復活させました。
現在大洲では31隻の屋形船と3隻の鵜船で鵜飼を行っており、岐阜県長良川・大分県日田市三隈川とともに、日本三大鵜飼いに数えられているんだそうです。

9時少し前に到着しましたので、ゆうゆう窓口で押印を依頼しました。

愛媛 宇和島郵便局 風景印

〒798-8799
愛媛県宇和島市丸之内1-3-12

使用開始年月日:1976年(昭和51年)4月20日
名物・闘牛の横綱牛の彫物  宇和島城

宇和島駅に降りて目に入ってきたのが闘牛大会のお知らせの看板。。。

ん?闘牛?それは高知じゃ??あ、いやあれは闘犬か?!
と心の中で一人突っ込み。

マンホールにも闘牛が描かれてます。

闘牛の歴史は17世紀の後半にさかのぼります。宇和海を漂流していたオランダ船を福浦の漁民が救助し、礼として贈られた2頭の牛がたまたま格闘したことから始まった、と伝えられているそうです。
うわじま闘牛定期大会は、年に5回。制限時間なしで牛同士が戦い、逃げた方が敗けというルールです。

宇和島城は、中世期にあった丸串城(板島城)の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭です。
標高約80メートルの丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城」でもあるお城です。

城が図案に入った風景印は切手があれば、ポストカードとかと合わせてMCにしたいと思っていますが、、、ポストカードが手に入りませんでした。自分で撮った写真を印刷してもいいのですが、そんな時間はなく・・・とりあえず〇シールに押してもらっておきました。

愛媛 宇和島駅前郵便局 風景印

〒798-0034
愛媛県宇和島市錦町3-27

使用開始年月日:1993年(平成5年)3月25日
 牛鬼 宇和島城

「牛鬼(うしおに)」とは全長5~6メートルの山車のことで、鬼のような顔に長い首、赤い布やシュロで覆われた牛の胴体、剣にも似た尻尾を持っています。
毎夏に「牛鬼まつり」というお祭りがあり、何体もの牛鬼が市内を練り歩く迫力のパレードや伝統の宇和島おどり、夜空と宇和海をも彩る花火大会、そして最終日の走り込みなど熱気あふれるイベントで盛り上がるそうです。

そもそも牛鬼というのは西日本に伝わる妖怪なんだそうです。主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲うとか。。。非常に残忍・獰猛な性格で、毒を吐き、人を食い殺すことを好むとされています。

その妖怪を神聖視してお祭りがはじまったという説もあるようですが、牛鬼まつりの由来としては他にも伊予国の藤内図書と蔵喜兵ノ尉という人物が牛鬼を退治したという話、徳島県海部郡の牛鬼を伊予の人物が退治したという話、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が朝鮮の虎を脅すために亀甲車を作った話など諸説あるんだそうです。

商店街にはお面がいっぱい飾られていましたし・・・

マンホールのデザインにもなってました。

宇和島城は、中世期にあった丸串城(板島城)の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭です。
標高約80メートルの丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城」でもあるお城です。

愛媛 愛媛県庁内郵便局 風景印

〒790-0001
愛媛県松山市一番町4-4-2

使用開始年月日:2000年(平成12年)6月19日
松山城遠景 愛媛県庁 路面電車 自動車

愛媛県庁舎は、本館、第一別館、第二別館と、県議会議事堂からなる建物の総称です。
1929年に本館が完成。1980年に別館が完成。そして、1982年に県議会議事堂が完成し、現在に至っています。
本館の工事費用はおおよそ100万円(当時)で、設計は木子七郎氏。
老朽化により、1994年に大修繕が行われました。

Uさんからの頂きものです。もう随分経ってしまってますが・・・(-_-;)

愛媛 松山宮田郵便局 風景印

〒790-0066
愛媛県松山市宮田町8-5

松山宮田

使用開始年月日:1991年(平成3年)4月19日
子規句碑 市内電車 郵政局 松山城

『春や昔十五万国の城下哉』
この句は、愛媛県松山市出身の正岡子規(1867~1902)が、1895年(明治28年)春、日清戦争の従軍記者として出征するため、東京から一時帰省した時に詠んだ句です。
松山市の中心にお椀を伏せたように佇む勝山(標高132m)山頂の松山城に上り、城下を見渡して、昔に思いを馳せ、懐かしみ詠んだそうです。
JR松山駅前に石碑があるそうです。道後公園子規記念博物館敷地にもこの句が書かれた小さな石碑があるのだとか。

市電

いただきものです(^^)