第4回関東郵趣サロン研究会 楽しい切手展 小型印(豊島郵便局)

「今年の干支イノシシの切手」、「世界の植物切手」、「コペルニクス500年」、「再独立リトアニアの普通切手」、「日本の航空書簡」、「東房総の二重丸印」など、各ジャンルから多彩な作品を展示。とのことでした。

小型印は現地を訪問されたTさんより頂戴しました。

ちょうど62円!面白い切手の貼り方です(*’▽’)
お時間無い中、お送りいただき、ありがとうございました!

静岡 浜松元目郵便局 風景印

〒430-0948
静岡県浜松市中区元目町120-8

使用開始年月日:1999(平成11)年10月1日
浜松城 浜松城公園 玄黙口跡

浜松城の前身となった引間(曳馬)城(現在の東照宮付近)の北側の城門が玄黙口(げんもくぐち)でした。三方ヶ原の戦いで敗北を喫した徳川家康はこの門へ退却したと伝わるそうです。

押印してくれる人(他の方が押された場合は違うかもしれないので「人」と書きます)が風景印を押す際に、適当に押すよなぁと思う人はたいてい押したハガキをそのまま渡してきます。(勝手な判断です)
普通はハガキを入れる袋や、インクが他へつかないようにとティッシュを挟んでくれたり、乾いてから入れてくださいね。等の一声をかけてくれたりします。

17時ギリギリに行ったので早く帰りたかったのでしょうか。そんな感じで適当に押された感じがして、図案は気に入っているのにとてもガッカリして局を後にしました。

静岡 浜松連尺郵便局 風景印

〒430-0939
静岡県浜松市中区連尺町309-14

使用開始年月日:1999(平成11)年10月1日
浜松城 大手門

浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城で、築城時の城主は不明です。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。この頃の城は、現在の元城町東照宮付近にあたります。徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めました。
拡張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わりますが、その4年後の1586(天正14)年、家康は浜松から駿府に本拠を移しました。
現在の天守台は家康の後に浜松城に入った堀尾吉晴が築いたものだと言われています。近世には天守は存在しなかったようで絵図にも記載がありません。本丸にあった二重櫓が天守代用とされていたようです。
現在の天守は観光用に建てられた模擬天守です。

dav

大手門の外からの写真は同じ角度では撮れなかったので、内側から・・・

風景印は1枚1枚とても丁寧に押してくださいました。

局では申し出れば、風景印の説明を頂くことができます。

連尺という地名は連雀(連尺)という背負子を背にした商人がこの地を往来していたことに由来します。

と説明されていました。

駐車場はなく、HPにも無しと書かれていますが、尋ねたところに寄れば、北隣の建物の地下の駐車場に停めれば割引チケットをお渡しできます。と言われました。

静岡 浜松鹿谷郵便局 風景印

〒432-8014
静岡県浜松市中区鹿谷町20-5

はままつしかたにゆうびんきょく

使用開始年月日:1999(平成11)年10月1日
浜松城 道路に転用されている旧遠州鉄道奥山線のトンネル

奥山線は、かつて静岡県西部、浜松市の遠鉄浜松駅(現・遠州病院駅)から三方原台地を北上して、国鉄二俣線金指駅を経由し、引佐町(現・浜松市)の奥山駅との間を結んでいた、遠州鉄道の鉄道路線。軌間762mmの軽便鉄道です。1914(大正3)年に元城ー金指間が開業し、20年に気賀(後に気賀口)へ延伸され23年に板屋町(浜松)-奥山間が全線開通しました。
戦後のモータリゼーション到来により業績を落とし、1963年(昭和38年)の区間廃止を経て、翌1964年(昭和39年)に全線廃止されました。

旧元城駅及び車庫・工場の跡に建ったホテルコンコルド浜松を過ぎ、三方原台地へと差し掛かる切通しとトンネルは、サイクリングロードとして整備されています。トンネルはレンガ造りですが、往時のままではなく装飾がなされているほか、奥山線時代の写真なども載せられているそうです。
サイクリングロードは銭取駅跡付近まで続いています。

静岡 浜松布橋郵便局 風景印

〒432-8012
静岡県浜松市中区布橋1-5-12

使用開始年月日:1999(平成11)年10月1日
遠州大念仏 浜松城 三方原古戦場・犀ケ崖

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)とは、1572(元亀3)年12月22日、三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北方、天竜川と浜名湖との中間)で起こった武田信玄と徳川家康との戦いです。
上洛を企てた信玄は遠江(とうとうみ)に侵入、そして堅固な浜松城を攻めずに徳川軍を三方ヶ原に誘い出して戦いました。その結果、信玄は大勝利をおさめ、家康は浜松城に敗走しました。
しかし、その夜、家康は一矢を報いようと浜松城の北側にある犀ヶ崖(さいががけ)付近で夜営をする武田軍を急襲しました。

当時の犀ヶ崖は、東西約2km、幅50m、深さ40mに及ぶ切り立った断崖絶壁でした。地理を誤った武田軍は、この崖に落ちて多くの人馬を失ったと伝えられます。

「崖に布を張り、橋と見せかけて武田軍をこの谷に落とした」という伝説もあります。
布橋一丁目の「布橋」という町名は、この伝承にちなんだ地名です。

現在は、その場所に犀ケ崖資料館が建っています。

dav

静岡 浜松富塚郵便局 風景印

〒432-8002
静岡県浜松市中区富塚町2345-1

使用開始年月日:1999(平成11)年10月1日
佐鳴(サナル)湖 浜松城 御前谷「史跡太刀洗の池」石碑

太刀洗の池の碑は、県西部浜松医療センターの駐車場の一画に建っています。
昔はこの辺り一帯は藪に覆われ、約50平方メートルほどの池であったそうです。
徳川家康の正室・ 築山御前(瀬名姫)は甲斐武田氏と通じたとされて、織田信長から要求を受けた家康は妻を殺さなければいけないという事態に追い込まれました。
1579(天正7)年8月29日、築山殿は浜松城に向かう途中、佐鳴湖畔富塚村の小藪で、家康の家臣により殺害されました。享年38歳。
その時使った太刀を洗ったことから、藪の中の大きな池は、『大刀洗の池』と呼ばれるようになりました。現在は池はなく、浜松医療センター駐車場の東側に建つ石碑のみとなっています。

風景印を見ると、太刀洗池が描かれているようにも見えますが、、、描かれているのは佐鳴湖という湖です。浜松市西区にある湖です。なんと、この湖、日本1,2位を争う汚い湖とされているそうです(;^_^A
COD(化学的酸素要求量)の数値が高いのだそうです。
千葉県のHPに平成28年度のCODの高い湖沼が発表されていましたが、佐鳴湖は4位でした。1~3位までが沼だったので、湖でいえば、やはり1位ということで・・・(;^_^A

dav

局舎は綺麗でまだ新しそうだなと思ったら3年ほど前に移転したようでした。

静岡 浜松西山郵便局 風景印

〒432-8001
静岡県浜松市西区西山町2168-3

使用開始年月日:1999(平成11年)年10月1日
ブルーインパルスの曲技飛行

近くに航空自衛隊浜松基地があります。エアパーク(航空自衛隊浜松広報館)と言う、一般の人が航空自衛隊を理解するために作られた施設があります。戦闘機や装備品の展示をはじめ、シミュレータや全天周映像シアターも設置されています。

こちらを見学した帰りに西山局で風景印を貰ってきました。

遠くにうーーーーっすら富士山が見えました。

静岡 浜松郵便局 風景印

〒430-8799
静岡県浜松市中区旭町8-1

使用開始年月日:1990(平成2)年10月29日
浜松城を描いた凧 音符
外枠 ウナギ

浜松市はヤマハやカワイ、ローランドといった世界に名立たる楽器メーカーが立地し、楽器のまちとして知られています。
また、ウナギの養殖発祥の地でもあります。
そして、歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」と言われた浜松城。

風景印の中にギュっと浜松が詰め込まれていていいですね。