〒530-0001
大阪府大阪市北区梅田3-2-4
大阪城 通天閣 堂島川にかかる水晶橋
外枠 北区の花 バラ
こちらが水晶橋。
堂島側にかかる歩行者専用橋です。本来は河川浄化を目的として1929年(昭和4年)に建設された可動堰だった。
この図柄の中で北区に存在するのは水晶橋だけなんですけどね・・・(^^;
特印の押印日と重なっていたため、通常よりも人が多く、やっつけ仕事で印を押しておられましたが・・・印のかかり具合が完璧で恐れ入りました。。。
〒602-8044
京都府京都市上京区下立売通堀川東入東橋詰町172-1
きょうとしもたちうりほりかわゆうびんきょく
使用年月日:1990年2月2日~2017年3月17日
堀川の柳並木 伊藤仁斎宅跡
珍しく渡す際に局員の方が風景印の図案について説明してくれた。でも、、、伊藤仁斎って・・・どなた??(^^;
ウィキペディアによれば、江戸時代前期(1627ー1705)の儒学者だそうだ。
はじめは朱子学を唱えたが後にこれを排し、古義学を唱え、1662年~1705年まで私塾を開き、教授に努め、その門下生は3千人を超えたということ。
現在の建物は明治23年に再建されたもの。
3月21日より移転し、京都堀川下長者町郵便局と局名が変更になるため、風景印が廃止になりました。新しい局名での配備は発表されてません。。。
新しい所でも作ってもらいたいなぁ。。。
〒604-8799
京都府京都市中京区三条通東洞院東入る菱屋町30番地
なかぎょうゆうびんきょく
使用開始年月日:2012年(平成24年)3月23日
中京郵便局庁舎
1871年(明治4年)の郵便制度発足時に、東京・大阪と共に設けられた郵便役所を前身としており、日本で最も歴史のある郵便局の一つだそうです。
現在の建物は1902年(明治35年)に建設されたネオルネサンス様式による建物で京都市との登録有形文化財に指定されています。
1998年(平成10年)には当時の建設省により公共建築100選に選定されました。
平成24年3月23日までは別のデザインの風景印が使用されていたのですが、庁舎が京都市有形文化財に登録されており、現在の風景印よりも地域に密着した景観となっていることから今のデザインに変更されたようです。
〒552-0001大阪府大阪市港区波除5丁目7-15
7100形蒸気機関車・義経号 波除山跡碑
外周:JR大阪環状線路線図のイメージ
波除=なみよけ。と読みます。
SLが図柄に入っているのは、2014年4月6日までJR弁天町駅すぐの所に交通科学博物館があり、そこに展示されていたため。
2016年春、京都市下京区の「梅小路蒸気機関車館」跡に「京都鉄道博物館」が開館され、そこで展示される予定。
2016年春に開館した京都鉄道博物館に新たに展示されました。これに伴い、動態復帰している。。。とか。
波除山跡碑は波除山跡 港区弁天5丁目12・弁天東公園内にあります。
小さな公園内にポツンと佇んでいます。
碑文には波除山は貞享元年(1684年)、河村瑞賢が安治川を開いたとき搬出された土砂が丘となり、のち松が植えられ、瑞賢山あるいは波除山で親しまれた。 と書かれているそうです。
碑文は読みにくく、何を書いてあるかよく見えませんでした・・・
安治川開削300年記念の昭和59年(1984)当時の山の一角に顕彰碑が建立されました。
貞享元年(1684)幕府は、淀川下流域の水害の原因となっていた九条島の開削を河村瑞賢に命じる。瑞賢は川の水をまっすぐに海に流すため、九条島の真中に幅50間(約90m)長さ1,600間(約3km)の水路を掘った。それまで新川と呼ばれていた水路は元禄11年(1698)幕府によって安治川と名付けられた。安治の安治は河村瑞賢の諱名(いみな)だと言われているとのこと。川の開削で掘り出された土砂は、川の南岸一帯に積み上げられ、山となった。山の上には松が植えられ、付近を航行する船の目じるしとして親しまれ、「波除山(なみよけやま)」または瑞賢の名を取って「瑞賢山(ずいけんやま)」と呼ばれたそうです。
印は最初若い男性職員さんが押してくれたが、これでいいですか?と少々申し訳なさそうに見せられた印は完全に局の名前がぶれてしまっていたため、名前、ぶれちゃってますねぇ。まぁいいですよ。と言ったのですが、押し直してくれました。押し直す際、局長さんが出てきて、これで自分がミスしたら恥ずかしいな。と言いながら、自ら押してくれました。
〒605-8799
京都府京都市東山区大和大路通五条下る石垣町西側42
清水寺の舞台
錦雲渓(きんうんけい)の崖に、最長約12メートルの巨大な欅の柱を並べ、「懸造り」という手法で、釘を一本も使わずに組み上げた木造建築。
本堂から張り出した「舞台」はちょうど4階建てのビルの高さにあたる。面積は約190平方メートル、410枚以上のヒノキ板を敷き詰めた「桧舞台」。
この舞台はもともと、御本尊の観音さまに芸能を奉納する場所。現在でも重要な法会には、舞台奉納が行われている。
清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・という有名な言葉はこの舞台が由来。
観音様に命を預けて飛び降りれば、命は助かり願いがかなうという民間信仰からきているようだ。江戸時代に234人が飛び降りて生存率は85%という記録が残っている(成就院日記)。1人で2回飛び降り、2回とも助かった人もいたようだ。
飛び降りの風習は1872年(明治5年)に京都府が禁止令を出し、次第に沈静化。舞台の周りには防止用の竹矢来が組まれた。
局では若い女性が対応してくれた。対応が悪いとかそういうわけではいっさいないが、「こちらが風景印になりまーす」ってな感じの対応。コンビニみたいで違和感があった(^^;
〒540-6591
大阪府大阪市中央区大手前1-7-31(マーチャンダイズビル地下階)
大阪マーチャンダイズ・マートビル アクアライナー
川崎橋 桜の輪郭
大阪マーチャンダイズマートビルは天満橋交差点の北東角に位置し、「OMMビル」と呼ぶことが多いです。シカゴにあるマーチャンダイズマートビルがモデルになっているとか。。。
川崎橋は大阪市北区天満と都島区網島町を結ぶ大川に架かる橋。もともと右岸の天満川崎と左岸の備前島を結ぶ「渡し」があった場所。昭和53年、中之島公園と千里万博公園を結ぶ大規模自転車道の一環として架設された自転車・歩行者専用の橋。橋形式は高い塔からケーブルを出し桁を吊った斜張橋で、景観を重視しているらしい。
OMMビル内から見た川崎橋。手前の大きな橋は天満橋。
アクアライナーは大阪城公園~中之島周辺を循環遊覧するクルーズ船。
〒530-0041
大阪府大阪市北区天神橋3-11-1
天神天満ほっとなかよし 夫婦橋
局のすぐ近くにある夫婦橋(復元された欄干のみ)、そのたもとにある「天神天満ほっとなかよし」の像?が図案になっている。
夫婦橋の由来を記した碑が橋のたもとにある。
夫婦橋は、旧天満堀川が天神橋筋と交差する所に架けられていた。
堀川は、当初豊臣秀吉時代の慶長3年(1598)に一部が開削され、その後天保9年(1838)に扇町から東北へ延伸された。夫婦橋はこの堀川の延伸に伴って架けられたものである。
延伸前ここに女夫池という池があった。この名の起こりについては二説あるが、その一説に昔この辺りに仲睦まじい若夫婦が住んでいた。わけあって夫は妻に三年間待ってほしいと言い置いて他国へ出かけた。期限が過ぎても帰って来ないので、妻は思い余って池に身を投げて死んだ。その後夫が戻って来るが妻の死を知り、後を追って入水して果てた。世人これを哀れんで女夫池と呼んだという。v 天満堀川延伸により池は埋められ能勢家の邸と妙見堂が建てられた。
縁日にはこの「夫婦池の妙見さん」は参詣人で大変賑わったという。
夫婦橋は、昭和四年に一径間鋼鈑桁の近代橋に生まれかわった。
戦後堀川は環境が悪化したので埋め立てられることとなり、川筋は阪神高速道路の高架橋の下に入り、この辺り天保9年に開削された処も昭和47年には変面道路となり現在に至っている。 平成11年 大阪市
女夫池、つまり夫婦池は、元々朝来池という池があったところの傍らにもう一つ池を掘って女夫池となる。天保8年(1837)頃堀川に淀川の水を通すため開削し、女夫橋が架けられていたようだ。
橋の現在の姿。
碑にある通り、阪神高速の下にあり、橋はなく残っているのは欄干だけ。欄干も1999年に復元されたものだそうだ。
ほっとなかよしの像についてはなぜここにあるのか、わからずじまい。写真を撮ろうとしたが、、、そこにはお昼寝をしている人が(–;また今度ということで。
なかなか自分で再訪する機会がないのですが、お友達が行ってきたーって写真送ってくれはったんで、外観を掲載してみます(^^)
後日、通りがかる機会がやってきたので写真撮ってみました。