〒554-0024
大阪府大阪市此花区島屋4-1-18
使用開始年月日:2001年(平成13年)11月19日
区花・チューリップ 天保山渡船
外枠 区花・サクラ
此花西九条局とかなり似ていますが、、、ちょっと違います(^^;
まぁ、西九条局よりは渡船場に近づいてますが・・・それでも遠いです。
天保山渡船に一番近い此花区側の局は此花桜島局です。
こちらは港区側の乗り場です。
〒554-0024
大阪府大阪市此花区島屋4-1-18
使用開始年月日:2001年(平成13年)11月19日
区花・チューリップ 天保山渡船
外枠 区花・サクラ
此花西九条局とかなり似ていますが、、、ちょっと違います(^^;
まぁ、西九条局よりは渡船場に近づいてますが・・・それでも遠いです。
天保山渡船に一番近い此花区側の局は此花桜島局です。
こちらは港区側の乗り場です。
〒554-0012
大阪府大阪市此花区西九条3-11-26
使用開始年月日:2001年(平成13年)9月3日
区花・チューリップ 天保山渡
外枠 区花・サクラ
天保山の渡船・・・ここからだいぶ遠いんですけど・・・(^^;
局はJR環状線 西九条駅の近くにあります。大阪安治川口駅前郵便局とそっくりなのですが、、、よく見ると違います(^^;
〒559-8799
大阪府大阪市住之江区新北島5-2-18
使用開始年月日:1990年(平成2年)3月30日
港大橋 高灯籠
外枠 区花 サザンカ
港大橋は1970年に着工され1974年完成した、大阪市港区と南港とを結ぶ全長980m、中央径間510mの日本最長(世界第3位)のトラス橋です。阪神高速湾岸線と大阪港線が上下に走っています。
港区側は港入船郵便局の風景印の図案に港大橋が描かれています。
高灯篭は、住吉大社の灯篭で、鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされています。高さは5丈3尺余(約16m)で、鎌倉時代の末期の創建といわれているそうですが、はっきりしていないようです。
現在の高灯篭は1974年に場所を移して(国道26号線沿にあるそうです)復元されたもので、元は200メートルほど西方にあったそうです。
2005年(平成17年)に内部を改装し、史料館となっている。(一般開放は毎月第1・第3日曜の10時~16時)
残念ながらどちらも住之江局からは随分遠いところにあるので見に行くことができず。。。
後日訪れた高灯籠です。近づくと全景が入らなかったので、通りの向こう側から・・・
〒556-8799
大阪府大阪市浪速区難波中3-10-1
使用開始年月日:1991年(平成3年)10月1日
通天閣 将棋盤と駒(王将・歩)
外枠 浪速区の花 ナデシコ
浪速区は将棋の街だそうです。まだ、大正時代の将棋名人・坂田三吉を偲んで、通天閣の真下に「王将」の碑が建てられています。
通天閣は浪速区にある展望塔です。2007年5月15日に、国の登録有形文化財となっています。ビリケンさんで有名です。
天に通じる建物という意味を込めて建てられた通天閣ですが、、、塔の高さは地上100メートルということでなかなか小さいです(^^;
現在の通天閣は二代目で、1956年(昭和31年)に完成したものです。
浪速郵便局の風景印は以前は「大阪球場」がデザインされていました。今では解体されて「なんばパークス」になってますけど・・・
図案を変えるのに、なぜもっと身近なものにしなかったのかなぁと不思議に思います。インパクト大の神社とか近くにあるのに・・・
通天閣に一番近い局は浪速日本橋東郵便局ですが、、、風景印がありません。
というか・・・大阪市内、風景印やっぱり少ない。。。
ゆうゆう窓口で押印してもらいました。
〒557-8799
大阪府大阪市西成区岸里2-3-29
使用開始年月日:1990年(平成2年)3月20日
府文化財・だいがく 千本松大橋
「だいがく」は西成区玉出の生根(いくね)神社に伝わる長い丸太柱に79個の神灯を飾り付けた櫓。下の台を含めた全体の高さは20メートルほどにもなるそうです。
だいがくの漢字は諸説あるようです。櫓に額を取り付けるから「台額」、昔は舁(か)いて練り歩いたから「台舁」、櫓台と神楽を合わせた「台楽」など1つに定まらないため、、、1972年、「玉出のだいがく」とひらがな表記で府の有形民俗文化財第1号に指定されたそうです(^^;
古来から雨乞いの神事に使われたそうです。
毎年7月24日、25日に行われています。
千本松大橋は、大阪市大正区南恩加島3丁目~大阪市西成区南津守2丁目間の木津川に架かるループ橋です。大阪市の管理で、1973年(昭和48年)に架設。両端部の2階式螺旋状坂路(720度ループ)を含めて道路長は1228mあり、橋の形状をメガネに見立てて、「めがね橋」の愛称で呼ばれています。「千本松大橋」の名称は、江戸時代にこの地の木津川堤防に沿って多くの松が植えられていたことに由来しているそうです。
木津川の両岸には工業地帯が広がり、大型船が頻繁に航行しているため、船の運航に考慮して、通常の橋が架橋できず、自動車は上流の橋まで大きく迂回をせざるを得なく、特に大正区南部の住民には交通面でかなり不便だったそうです。その交通の便を改善する目的で、桁下の高さを高くとったループ橋・千本松大橋が建設されたそうです。
車道も歩道もあるので、自動車も歩行者も通行が可能。(でも、歩行者は通行が大変なため、渡船を使うことが多いようです。)
随分前に立ち寄った際に押印してもらったものです(^^;
〒538-0044
大阪府大阪市鶴見区放出東3-20-30
つるみはなてんひがしゆうびんきょく
使用開始年月日:1990年(平成2年)3月30日
天然記念物 クスノキ 鶴見緑地の風車
外枠 チューリップ
JR学研都市線放出駅の北西すぐに鎮座する阿遅速雄(あじはやお)神社にあるクスノキで、大阪府の天然記念物に指定されています。幹のまわり約6m、樹高約16m、樹齢1000年ともいわれているそうです。
木の中央の幹がばっさり切られてる。大正時代に落雷にあって、3分の1だけが生き残り、その後、20m以上もある枯れた主幹のため大きくなれなかったのを、樹医さんの手当でみごとに復活したのだそうです。
風車は1990年に開催された花と緑の博覧会の会場となった鶴見緑地にあります。花博が開催される前からあったそうです。
久しぶりに鶴見緑地へ行きましたが、、、この局はかなり遠いです。もっと近くにたくさん局はありますが、風景印を配備している所が少なくて残念です・・・
風景印はUちゃんからのいただきものです。
〒553-0006
大阪府大阪市福島区吉野1丁目20-27
使用開始年月日:1996年(平成8年)8月8日
福澤諭吉誕生地碑 野田藤
外枠 フジ
大阪市福島区野田および玉川辺りはその昔は「吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉」と称された藤の名所だったといわれていますが・・・現在この辺りを訪れても名所??と首をかしげてしまうと思います。。。
古くは室町、そして江戸時代までは藤の名所として大いに賑わっていたそうです。明治以降は土地の開発の波にのまれて、かっての賑わいは陰りを見せ、わずかに残された藤棚も先の第2次世界大戦の空襲で殆んど焼失し、1950年(昭和25年)のジェーン台風が大阪を直撃した際に消滅したと言われているそうです。
近年は地域の方たちの野田藤復活への努力のおかげで、付近でもちらほら藤棚を見かけます。
一般のヤマフジは「つる」が左巻きなのに対して「ノダフジ」は右巻きなのが特徴なんだとか。
あと2週間もすれば藤の花が満開になる頃でしょうか。。。その頃に野田付近を散策できれたらいいな・・・
ということで・・・
4月20日、切手趣味週間の記念押印に大阪中央局まで行ったので、藤が咲いているかどうか、この辺りで野田藤が一番たくさん植えられているという下福島公園に見に行きました。
房はあまり長くはないですが、藤棚が至る所に設けられていて、ほぼ満開に近いぐらい花が咲いていました。ハトが花芽を食べてしまうらしく、一部は網がかけられていました。
右巻き・・・でしょうか?(^^;
〒537-8799
大阪府大阪市東成区東今里3-13-11
使用開始年月日:1990年(平成2年)3月23日
深江稲荷神社の大イチョウ 「深江笠ゆかりの地」の石碑・菅笠
外枠 区花・パンジー
深江稲荷神社は宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)ほか二柱を奉斉する旧深江村の氏神で、和銅年間(8世紀前期)の創建といわれ、慶長8年(1603)豊臣秀頼が社殿を改造したとも伝えられます。笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、現在境内が「笠縫邑跡(かさぬいむらあと)」「深江菅笠ゆかりの地」として大阪府、市から史跡に指定されています。(東成区役所 まちづくり推進課のページ参照)
昔、深江では良質な菅草が自生していました。笠縫氏の一族が移住してきてこの地で菅笠を作っていました。万葉歌人高市黒人(たけちのくろと)が「四極山(しはつやま) うち越え見れば笠縫の島 漕ぎ隠る 棚無し小舟」と詠んだ様に、古代には、笠縫島といわれた島だったんだそうです。
Uちゃんが局めぐりで貰ってきてくれたものです。
〒535-0021
大阪府大阪市旭区清水4-2-1
使用開始年月日:2000年(平成12年)12月12日
花博記念公園内の花畑と風車
友達が貰ってきてくれたのですが、風景印をお願いするとこんな冊子が貰えるそうです。
わかりやすくてとてもいいです!
スケッチのような図案がかわいいです(^^)
局名に「大阪」が入っているので、どこか同じ名前の局があるのかと思ったら、岡山県に「旭東郵便局」があるみたいです。
〒550-0013
大阪府大阪市西区新町3-5-7
使用開始年月日:1991年(平成3年)4月1日
大阪木材市売市場発祥の地碑 問屋橋風景
「とんや」ではなく「といや」と読むそうです。
元和末年(1622)の頃土佐藩の申請によって材木市が立売堀川で始まり, やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると西長堀川でも材木市が許可される事になった。土佐ばかりでなく, 日向, 紀州, 阿波, 尾張など全国各地の材木が集まりしだいに川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり, 西長堀橋南詰から富田屋橋, 問屋橋, 白髪橋にかけての浜側は, 江戸時代から昭和にいたるまで, 年中材木市が開かれてた。
戦後, 長堀川は水質の汚染が進み舟運の利用も減少したため昭和36年から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が埋め立てられ, また昭和四十二年から同四十六年にかけて四ツ橋から 木津川間の西長堀川も埋め立てられた。今でも北堀江の東側には, 材木商の看板があちこちに残っている。
局は長堀通り沿いに見えますが、入り口は裏側にありました(そういう案内板もあります)
局から長堀通りへでてすぐの横断歩道を渡り、中央分離帯の緑地部分に問屋橋の案内板がありました。
風景印の図案はその案内板の写真が元になっているようです。
発祥の地の石碑はそこから西(白髪橋交差点の所)へ行った所にありました。