「福井市」タグアーカイブ

福井 棗郵便局 風景印

〒910-3133
福井県福井市石新保町11-1-1

なつめゆうびんきょく

使用開始年月日:1996(平成8)年11月1日
朝倉山 テクノポート福井 福井石油備蓄基地
らっきょ畑 らっきょの花

テクノポート福井は、日本海沿岸の福井市および坂井市にまたがる福井県最大の工業団地で、総合公園、商業サービス施設などもあります。
テクノポート福井の南側に石油備蓄基地があります。
石油は、その価格や供給量に関し、国際政治・経済の影響を非常に受けやすく、輸入依存度の高い日本では、世界情勢に石油の供給が大きく影響されます。
そんな不測の事態に備えて石油を備蓄しておく設備が国の直轄事業として全国で10か所あるそうです。そのうちの一つがこちらです。

局名の棗ですが、なかなか珍しい地名だと思います。
昔、この辺りは棗村という集落でした。(奈良時代にはすでに棗郷という荘園があったそうです)名前の通り、棗の栽培がさかんで、今でも栽培が行われているそうです。

ちなみに棗は鉄分やカリウムが豊富で貧血や熱中症対策に効果が期待できるそうです。。。

福井 福井宝永郵便局 風景印

〒910-0004
福井県福井市宝永3-35-16

福井宝永

使用開始年月日:1994年(平成6年)6月6日
養浩館庭園 市体育館 市花・アジサイ

少し違う趣ですが、こちらも福井開発局福井大手局と同じく養浩館庭園が描かれています。

福井市の体育館は屋根が特徴的ですね。

施設の案内を見ると、バスケットボールコート2面、バレーボールコート3面、バドミントン10面、卓球台24台、ハンドボールコート1面、テニスコート3面、フットサルコート1面とありました。

なかなか大きな体育館のようです。。。

福井 福井開発郵便局 風景印

〒910-0843
福井県福井市西開発2-204-2

福井開発

ふくいかいほつゆうびんきょく
使用開始年月日:1998年(平成10年)10月10日
名勝・養浩館庭園 市花・アジサイ

福井大手郵便局と同じく、養浩館が図案に入っています。

「養浩館」という名称は、明治17年(1884)に16代藩主・松平春嶽(しゅんがく)が命名。「物事にとらわれない、おおらかな心を持つ」ことを意味する孟子の言葉「浩然(こうぜん)の気を養う」が語源と言われています。

 

福井 福井大手郵便局 風景印

〒910-0005
福井県福井市大手2-3-20

福井大手

使用開始年月日:1993年(平成5年)8月9日
福井城 福井県庁 名勝 養浩館庭園

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福井県庁は福井城本丸跡に建てられています。
福井中央局の風景印にも描かれていた御本城橋を渡るとすぐに正面入り口があります。

養浩館庭園は元は福井藩主松平家の別邸でした。江戸時代には「御泉水屋敷」と呼ばれていたそうです。
明治時代、廃藩置県によって福井城は政府所有となりますが、御泉水屋敷の敷地は引き続き松平家の所有地として、その福井事務所や迎賓館としての機能を果たしました。
明治17年に松平春嶽によって「養浩館」と名づけられます。
昭和20年の福井空襲により惜しくも養浩館は焼失し、その後は長く本格的な修復は行われませんでしたが、昭和57年、国の名勝に指定されたのを機に、福井市によって復原整備が計画されます。江戸時代の文政6年(1823)に作られた「御泉水指図」を基本に、学術的な調査と復原工事が進められ、平成5年に完成、一般に公開されました。

福井 福井中央郵便局 風景印

〒910-8799
福井県福井市大手3-1-28

福井中央

使用開始年月日:1993年(平成5年)3月5日
越前時代行列 御本城橋 足羽山 県花 スイセン

越前時代行列は「ふくい春まつり」で行われる武者行列です。
福井にゆかりのある柴田勝家、松平春嶽など戦国武将やお市の方、武者隊等総勢600名が鎧兜に身をかため、市中心部で時代絵巻が繰り広げられるそうです。

御本城橋は福井城本丸の正面出入り口にあたる部分にかかる橋です。現在、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されています。

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夕暮れの御本城橋

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風景印と同じ角度の写真は夜景だけだったので、、、暗い(–;

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瓦御門跡からの御本城橋

福井中央局

自分での風景印の押印は今まで頑なに断ってきたのに、とうとうこちらでは断り切れず自分で押すことに・・・(^^;

【廃局】福井 福井春山郵便局 風景印

〒910-0019
福井県福井市春山2-16-16

福井春山

使用年月日:1994(平成6年)6月6日~2015(平成28年)3月25日
橋本左内使用の初湯の井 アジサイ

橋本左内は江戸時代末期の思想家。大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵や杉田成卿に師事し、蘭方医学を学び、福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となります。
西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあったそうです。
大老、井伊直弼の手により安政の大獄で春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて伝馬町牢屋敷(東京都中央区)で斬首されました。

そんな橋本左内の生誕の地である福井市春山二丁目には左内の初湯の井と言われる井戸があるそうです。

3月25日をもって廃局となってしまいました。

福井 福井豊島郵便局 風景印

〒 910-0857
福井県福井市豊島1-9-8

福井豊島

ふくいとよしまゆうびんきょく
使用年月日:1996年(平成8)8月8日~2015年(平成27)12月4日
北の庄城跡 戦国大名・柴田勝家像 県無形文化財・馬鹿ばやし
外枠 福井市章の形

柴田勝家(1522?~1583)は戦国時代の武将。織田信長に仕え、織田家の家老をつとめました。織田信長が本能寺の変で自害すると、織田家の後継者に信孝を推すが、信忠の息子である三法師を挙げる羽柴秀吉と対立。結局、信長の敵討ちをした秀吉に押し切られる形となり、織田家臣内での秀吉の地位は増大。またこの頃お市の方と結婚しています。しかし、そのまま秀吉との対立は深まり、賤ヶ岳にて秀吉と合戦、敗北。妻・お市の方と共に北ノ庄城で自害する。

北の庄城址は、柴田勝家が築造した北庄城の一部が考古学的発掘により初めて検出された遺構の上にあります。
北庄城は1575年(天正3)に築城がはじまり、織田信長の安土城天守(7層)をしのぐ、9層の天守閣をもつ日本最大級の城だったと記録に残っているそうです。
北の庄城址は柴田公園という公園になっているそうですが、その公園内に図案の柴田勝家像があるようです。

馬鹿ばやしは、面をつけ、太鼓や笛に合わせてこっけいに所作をするのが特徴。福井市手寄の火産霊(ほむすび)神社の5月24日の例祭に奉納される。

豊島・・・自分が読むなら近所に「てしま」と読む場所があるけど、東京では「としま」だよなぁ。。。って思って調べたら、読みは「とよしま」だった。普通に読むと「とよしま」だよなぁ(^^;

そんな豊島局は福井美幸郵便局と統合され、閉局となってしまいました。営業最終日の押印を郵頼しました。